「L.F.グループ」創立の頃

「グロースベッター」が発刊される前の約10年間は、長期予報の激動の時代であった。

1949年には気象庁長期予報課と予報課の一部および気象研究所の一部が併合し、季節予報を主テーマとする予報研究部第2研究室が新設された。さらに研究成果が能率よく予報現業に取り入れやすくする為に、第2研究室は気象研究所内(高円寺馬橋)でなく予報部の構内(現竹橋会館敷地)に置いて交流が図られた。公務員の削減といった社会的な情勢も背景としながら、戦前の長期予報課は姿を消した。

翌1950年から早速「季節予報の研究」第1報~第3報が発行され、地方官署にも配布された。これが「グロースベッター」の前身である。しかし、それだけではなかった。当時は戦後の混乱期だったので、第2研究室内には気象学会の事務局があり学会活動の中心を担っていた。1949年には予報研究ノート(現気象研究ノート)を発刊し、表紙を見ると気象研究所と日本気象学会が併記されていた。

第4巻(1953)、第7巻(1956)には季節予報が特集され、別途「季節予報文献目録」が気象学会の名前で発刊されるなど、長期予報の研究は気象研究所と気象学会の協力で地方の会員にも配布された。

この頃、ほぼ3年連続(1953,54,56)の冷害が発生し、外部からの強い要望もあって1958年に第2研究室の一部と予報課季節予報掛とが併合して長期予報管理官が創設され、翌1959年には数値予報の電子計算室が創設された。ほぼ同時期の新しい課の誕生は技術者を刺激した。物理的手法による数値予報グループは華やかな存在で、地方技術者の熱い期待に応えるように新しい論文が次々と地方に配布された。

1960年に東京で数値予報シンポジウムが開かれ、ささやかながら季節予報のセッションも開かれた。このころから、次の数値予報の一つの目標は予報期間の延長にあると指摘され、長期予報関係者は勇気づけられた。数値予報グループのレポート活動に刺激された長期予報グループ(L.F.グループ)にも同様な活動を始める機運が高まり、「グロースベッター」発刊へとこぎつけた。

(朝倉正氏からの提供資料)